私は昔から不気味な子どもとして名をはせていた。それは嫌なことじゃなくて、誇りだった。数々の愛すべき恐怖表現に近づきたかった。同化して、恐怖そのものになってみたかった。そしたらきっと無敵に素敵だ。目をそらす人もいるだろう。ただ一握りの同志の目の輝きを知りたかった。わかるよ。あるよ。それらは暗くジメジメとグロテスクだ。その黒い果実にまっすぐ手を伸ばす。残酷な現実を生き抜くための方法。許せない自分の罪を、抱えたまま未来へ。行けるのか。恐怖したまま、進めるのか。
そうだよ、こっちにおいで。
大丈夫。生きるというのは。
なんとも恐ろしいことだから。
これは、あなた自身だ。
鏡の中で踊る肉のドレス。
もっと中を見せてくれ。
やあ、実にブキミだ。
最高。
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日野先生がツイッターを始めてめちゃくちゃテンションが上がった。全部の発言にいいねを100回して生きていてくださりありがとうと伝えたかった。泥人形という作品は私の表現のルーツで果てしなく影響を受けております。七色の煙の公害、障害のある個性的な子どもたち、やり場のない怒り、結束、虚しさ、生きるということ。文字が読めない頃から惹きつけられ、幾度も読み重ねていた。
不気味な世界は悪環境だろうか?心地よい歪みというものが私は好きだ。私の心はアダムスファミリーだ。キラキラした世界も否定はしないし本音はちょっと羨ましい気持ちもある。だけど感性の根っこが暗い中で育ったせいかどうも外の光は嘘くさく色も薄く感じる。ビビットが過ぎたのか、濁っていて腐っているような配色がピッタリと胸におさまる。眼はギラギラと生と死を見つめて離さないし、より光が際立つような世界だと思う。不気味なのは小気味よいことより劣るだろうか?気味も千差万別。様々な味付けにまず驚いて欲しい。バリエーションを楽しみたいのだ。これは空気の質だ。恐ろしいものの気配だ。化物が好きだ。聖人よりかずいぶん自分に近いせいかもしれない。ほっとする日常の中にハバネロを並べ、舌が麻痺するのを楽しむ。私は不気味だ。意図したわけではなく自然に求めていた。世界が狂っていることを知ってほしい。そして、はやくその狂気に生きてほしい。在るものとして、恐怖の現象を内包してほしい。
ほしいよ。
不気味がほしい。
2018年10月、ブキミランウェイ開通。
なりたいものになれ。
現実地獄に震える魂を救う。
最後の道。
ブキミランウェイ。
あなたのなりたい姿を。
このブキミに溢れたステージで。
披露してみよう。
よろしく頼む。
許された世界。
めちゃくちゃになった人間も幸せ。
まっとうに育った魂も幸せ。
痛いのは実は無理。
血の色は好き。
ギャラリー顔で毎年ハロウィンにブキミをテーマにした展示をやることに決めた。最初はブキミルーム。今年はブキミランウェイ。ちなみに来年はブキミフード。
なぜブキミなことにこだわるのか。
自分でも今日まであまりわからなかったけど。言葉にすると少し、なんとなく、わかった気になる。
自分に向き合うのって大変だし体力いると思う。けど、表現してる限り逃げられません。突き詰めてできたら言葉にして共有していく。わかったりわからなかったり。諸々。楽しんでいる。
ブキミが好きな人はぜひ来てください。
ブキミを作れる人は作品出してください。
ブキミを着る人も募集。ハロウィンだしね。
ありがとう、ありがとう。